結婚を考える
キリスト教でいう結婚

結婚の秩序

信ずる者として結婚生活にはいる者、彼らの結合が、神によって与えられたものであるということを信ずる者は、彼らを助けてその結婚を支え、深めるものはまさしく神の秩序の非妥協性であることを発見する。彼らが勇気を失いかげる時、もはや自らの中に彼らの結婚を高める力を失った時、それを神の意志や彼ら自身の希望に一致させる力を見出せなくなった時に、彼らは、「あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう」と告げられる。カール・バルトは次のように述べている。

「結婚の秩序に関しては、あらゆる神の秩序におけると同様、福音書が語っているとおり、正しき者にも正しからぬ者にも等しく神の与え給う太陽や雨と同じことが該当する。すなわち、神の秩序は良き者にとっても悪しき者にとっても存在し、それは問を提出すると同時に答をも与える。人は全く責むべきところなく完全だと思われたてる結婚を楯にとって,神の秩序から逃れても容易にそのさばきを免れうると思ってはならない。

神の秩序はまた、支援、慰め、確認、指示を意味する。それは極めて実際的な真理、避くぺを心理学上または生理学上の誤謬に関する最も詳細な忠告にもまして実際的な真理である」。ここにおいては神の前に生きる生活が全く人間的な水準による生活とば根本的に異なることが、、他の生活の分野におけるよりも明瞭になる。

キリスト教でいう結婚は、小説や性科学に関する書物の中に書かれている結婚とはただその名称を共有するのみである。その相違は、キリスト者は真の結婚の困難さ、悲劇、不可能性を知らないのでなく、孤立無援でないこと、すなわち彼らの結婚には彼らを援助する第三者があるという点である。その同じ理由で結婚後も結婚の準備においても、祈りを一つにすることがいかに重要であるかは、いかに強調しても強調し足りないところである。